こんにちのいわき市を構成している地域を特徴的に捉えようとする場合、近代産業としての伝統とその産出スケールからみても、石炭産業の盛衰はまさにいわきのアイデンティティを具体化するものであった。
本書は、私のいわき地域研究における欠落対象として、最優先して熟読を求められるものであった。読者にも興味を持続するべく、長文になっても引用を積み上げて、重要な事項については、トータルなイメージをえられるよう構成し、最後に若干のコメントを試みたいと思う。

序章 大地のひろがりと地下の石炭

北は福島県双葉郡の富岡町北部からいわき市の平野部を経て、茨城県日立市付近までの南北約95キロメートル、東西5~25キロメートル、面積およそ780平方キロメートルの地下に炭層がある。
石炭産業で採掘の対象となる炭層は、一般に基底層の上、数メートルから10メートルのところにある。
通産省石炭局により行われた最終調査によれば、この地域の埋蔵炭量は約11億1100万トンと推定され、全国の総量の約5.2パーセントであった。
常磐炭田は、その石炭埋蔵量においては、北海道の45パーセント、九州の36パーセントに比べると極めて少量でしかない。
その炭質においても、平均の発熱量(昭和30年)は5,164カロリーであって、北海道の6,493カロリー、九州の6,345カロリーに対してはるかに低い。
しかし、常磐炭田は山口炭田とともに本州に在ることが特色であった。特に、ここは京浜地区に極めて近いという地の利があった。
常磐炭田の歴史は、これらの諸条件のもと、日本石炭産業史の、ひいては日本資本主義発達史の中の不可欠の部分として、波乱にみちた展開を見せるのである。

1章 幕末期-炭坑業のはじまり

この地域で人々が石炭を「売るために掘る」ようになるのは19世紀の半ば、嘉永年間(1845~54)以降である。
塩田よりの需要は常陸の石炭を江戸市場に結ぶ最初となり、反射炉よりの需要はそれを工業と結ぶ契機になったが、いずれも少量・短期の消費にとどまった。これに対し、安政の開港後、内外の蒸気船の燃料としての需要は常陸と磐城の石炭の前に本格的な商品市場の展開をもたらした。
このような幕末の経済情勢のもとで炭坑業を始めた坑業人の典型は、磐城の片寄平蔵と常陸の神永喜八である。
現在のいわき市四倉町大森に生まれた片寄平蔵(1813~60)は、もともとは材木屋であったが、彼が石炭の採取と販売に携わったのは白水村で石炭を探索して以来の最晩年の5年間であり、それは江戸日本橋の海産物商明石屋との関係から発したものであった。かれは「石炭油」(コールタール)の製造もしている。
『横浜市史』補巻には、平蔵の孫・片寄唯助が文久2(1862)から翌年2月まで、1万3,202俵(1俵=16貫=60キログラム)の磐城白水山の石炭を小名浜・剣浜に出し、このうち5,648
俵が船積みされたという記録があるという。
常磐炭田史において、石炭堀人足の姿がかすかながらはじめて認められるのは、先進地の九州よりかなり遅れた。
安政6年(1859)年、湯長谷藩から許されて磐前郡上湯長谷村の小野田に開坑した太平左平太は、あくる安政7年2月から慶応2年(1866)末までに総計6万4,500俵余りを出炭し
た。これは約3,780トンとなる。出資者は江戸三田一丁目商人の小西屋喜兵衛であり、左平
太はその請負掘をしていたのである。
当時の磐城の小炭坑では、一人の石炭掘人夫が一人の岡出し(後山)の補助をうけて1日に掘出す石炭の量は、せいぜい十数俵程度ではなかったか思われる。

第2章 明治前期の小さな炭坑

明治15、6年頃には、「平地方より石炭を出すは皆小名浜に駄送し、之より小汽船に積み茨城の郡河港に送り、利根川筋の小汽船用に供す。此石炭1ヶ年5万俵」と商務省の『商況年報』にある。磐城炭の一部は利根川の水運にも使われたわけであるが、なんといっても道路・港湾の整備がなされず、その流通圏は極めて狭かった。
政府は、明治5年の「鉱山心得書」、翌年の「日本坑法」によって地下埋蔵の「坑物」については、「独り政府のみこれを採用するの分義」があるとし、坑区の借区税は面積500坪につき年50銭であった。
磐前県においては、坑区数63、面積18万5,487坪が借区申請されたが、その内訳は地元農商(42坑区、4万5,000坪)、京浜商人(11坑区、4万坪)、後藤猛太郎(10坑区・10万坪)の持山の三つに分けられた。後藤猛太郎の実父が、明治政府の要人、後藤象二郎であった。

第3章 産業の発達と炭鉱社会の成立

明治17年(1884)、浅野総一郎らによって磐城炭鉱社が発足した。同社は赤字続きの数年ののち、明治22年に採掘量と販売高をようやく1万トン台に乗せた。しかし、輸送費が高い。同社の『考課状』(営業報告書)によると、生産費のなかの輸送費の割合は、明治28年上期では57パーセント、同下期では53パーセントもの異常な高さを示した。1トンを出荷するのに1円60~70銭もかかる。
明治20年代の末頃、常磐炭は全国的に見て西高東低という市況のなかで、東京とその周辺の狭い市場で、炭質の低さを値段の安さで補いながら九州炭その他と競争していた。
こうした状況に、決定的な変化をもたらしたことこそ、明治30年2月の日本鉄道磐前線の開通であった。
その背景には、明治20年頃から全国的に鉄道が敷かれ、紡績工場が造られ、そのほかの諸工場でも蒸気機関が設備されるようになったことがある。それに加えて明治18年の日本郵船会社の設立を画期とする海運事業の発展があったのであり、また明治27年8月、日清戦争が起こり、石炭の需要が増大するという事情があった。常磐炭田でも鉱区出願から新坑開発の動きが増加していたのである。
磐域炭鉱社も、明治26年、商法の施行により磐城炭鉱株式会社と改称し、新資本金40万円をもって発足したが、浅野総一郎とその盟友である渋沢敬一の2名で総株数の52パーセントを持っていた。
採掘量と販売量は、ともに増え続け、明治29年下期には2万トンに達したが、海上輸送
依存によるコスト上の隘路はおおきな壁となっていたのであった。
一方で、川崎財閥の創設者である川崎八右衛門は、明治29年、いわき市内郷の逸材・白井遠平らと組んで資本金50万円の入山採炭株式会社を設立した。同社は、内郷村白水に高倉坑・川平坑を開坑し、欧米の最新式の機械を設備した。翌29年から出炭が開始され、その数量は8,973トンであったが、33年には、12万6,985トンを産出した。
鉄道敷設の運動は、白井遠平ら地元有志と常磐炭田を開発する主体となった中央資本の強い願望のもとで、直接的には、明治22年小山から水戸間の営業を開始した水戸鉄道の延長として期待された。
しかし、常磐地方は勾配100分の1を以って線路を選定し得ることと、京浜地区への石炭供給として地の利を占める常磐炭田の開発利益を共有しうるとの想定のもとで、国策会社的地歩を占めていた日本鉄道株式会社によって免許申請が成されたのである。
明治27年11月の免許から、29年の隈田川駅から土浦を経て水戸までの「土浦線」の完成にすぐ続いて、30年2月、磐城の平まで開通した。これは同年末に隈田川・千住間も開通し、併せて「磐前線」と呼称されたが、ここに常磐炭は、陸路の鉄道によって京浜市場に直結したのである。
なお、磐前線は明治31年8月には宮城県岩沼まで延長され、日本鉄道株式会社「海岸線」と呼称された。のちに、同39年の国有化により「常磐線」となる。

第4章 小炭坑群のなかの大炭鉱

品質として劣等視された常磐炭が、大正初期になって1年間の生産量200万トンを超え、九州・北海道の二大産炭地と市場を三分するようになったのは、工業の発達による燃料使用量の増加と販路の開拓に腐心した当事者の努力によるものである。さらにもう一つの大きな理由は、常磐炭田が首都を距ること200キロメートルに過ぎず、鉄道開通によってわずか数時間で需要地に送炭できる至便の地理的天恵にあった。石炭の市価は石炭そのものの価格より採掘運搬の費用が大部分を占めているから、石炭需要の消費、炭坑の興廃などは実に運輸上の便否いかんにあるといえる。常磐炭は、首都東京を大市場として、関東・東北・信越・東海方面にたいする地理的位置が優位であるため、日本の石炭界における一個の大勢力となることができたのである。
鉄道が開通する前の輸送費は、山元から港への小運輸、叺代と叺詰込費、陸出しと艀代、本船積込-航海-陸場費を合わせてトン当たり2円60銭内外であった。これに対し、鉄道が通ってからの輸送費を湯本駅からの例えでみると、山元から駅への小運輸、貨車積込費-運賃-卸賃は塊炭で1円93銭ぐらい、粉炭で1円80銭ぐらいとなった。
日露戦争後の明治39年、常磐炭田の出炭量は、はじめて100万トンを突破した。しかし、戦後の反動不況のもとで、日本経済における企業の寡占化が進行し、切羽の進行速度アップや電動機械類の採用などの技術革新において、資金対策を強力に進めることができない弱小炭鉱は大資本に併合された。
明治39年の福島県石城郡についてみると、鉱区面積の約64パーセント、年出炭量の約83パーセントが大手6炭鉱(入山・小野田・好間・王城・三星・内郷)に集中していた。さらに石炭販売金額を見ると、この年の石城郡内の総額は367万3,135円であったが、その84パーセントにあたる307万6,098円が6炭鉱の販売額であった。
これらの大手のうち、特に磐城炭鉱と入山採炭の2社だけを見ると、出炭量は全体の約49パーセントを占め、労働者数も2千数百人にのぼっていた。
内郷・小野田の2炭鉱を経営する磐城炭鉱株式会社は、明治44年度の生産額では全国29社の大手の石炭企業のなかで第7位を占めた。また、入山炭鉱をもつ入山採炭株式会社は同じく13位、好間炭鉱株式会社は同じく15位にあった。労働者の構成のようすを見ると、次の点がわかる。
① 切羽で先山夫が熟練した腕をふるうのが石炭の生産過程の中心だった。従って、先山夫とそれを補助する後山夫(あわせて採炭夫)の比率が全体の50パーセントにもなっていた。
② 職工(機械夫や工作夫)の割合は、7パーセントぐらいから次第に10パーセントを越す傾向になった。坑口と切羽との間の石炭や人員・資材の運搬距離が増えるのに伴って、蒸気巻上機を動かしたり、直したりする労働者が多く必要になったからである。
③ 女子労働者の割合が非常に大きく、15歳以上の男女の年少者も加えると、全体の30パーセント内外にもなった。特に坑内夫の中に女の手子(後山夫やその他の雑役夫が30パーセント以上もいた。暮らしのやりくりのため、夫婦・親子が同じ仕事場で働くという炭鉱の生活の特色がここに表れている。
1日12時間労働の昼と夜との2組制であった。明治40年度の炭鉱夫の賃金を、石城郡平町のほかの仕事の職人や雇い人と比べてみると、先山夫の一日平均84銭は鋳物職の82銭に近く、支繰夫の61銭9厘は木挽・大工・建具職の60銭とほとんど並び、男の坑内雑夫の39銭3厘は男の農業日雇の39銭(県内平均)とほとんど等しい。女の坑内手子の37銭1厘は女の農業日雇35銭(県内平均)に、また選炭婦の22銭8厘は糸繰女の22銭5厘とほぼ同じであった。

第5章 欧州動乱景気

大正2年(1913)、石炭の海外輸出量(アジア向け)は、明治42年(1907)と比較して100万トン増加の387万トンとなった。同年、石炭の内地消費量は、1,336万トン、出炭高は、2,132万トンに達していた。
炭況に好転の兆しが見えたのは、欧州大戦景気にタイムラグがあり、大正5年(1916)からであった。同8年(1919)には全国の出炭量も3,000万トンを越し、生産全額もピークの約4億4,000万円で、5年間で5.5倍となった。
常磐炭田においても、大正3年の出炭量・生産金額をそれぞれ100とすると、大正8年の出炭量380万トンは162、同じく生産金額4,463万円は576となる。入山採炭株式会社が大正8年下期の株主配当を8割の大台に変せたことも記憶されてよい。
しかし、大正9年(1920)、入山採炭株式会社の株主配当が一挙に2割に落ち、それ以降さらに下降したことにみるごとく、総力戦として経過した第一次世界大戦の戦後恐慌は強烈であった。各社とも減産を余儀なくされ、常磐炭田全体として出産量・生産全額を減じ、値動きは再び上昇を見ることがなかった。
ところで、常磐炭と鉄道の深い関連をさらに見ると、鉄道院(大正9年からは鉄道省)が各産炭地から買付ける石炭のうち、常磐炭はほぼ3割近くを占めていた。大正4年度、石炭契約高206万3千トンに対して常磐炭は61万2千トンで29.7パーセントを占めていた。
一方、炭鉱業は、同時に運輸業であるといわれてきたが、国鉄常磐線の石炭輸送能力は第一次大戦期に早くも限界に達した。この当時の常磐線は単線運行だったため、石炭輸送量が増えるのに伴って貨重の回転に渋滞を生じ、輸送力が不足する原因となった。例えば、大正8年中の常磐炭採掘高380万トンに対し、その輸送高は280万トンを出ず、その結果は各発送駅に貯炭山積みし、自然発火や風化による損失に直面したのであった。
大正14年(1925)10月に常磐線が複線化するまで、この問題は解決しなかったのである。

第6章 第一次世界大戦後の不景気

需給不均衡のおもな原因は、好況期に採炭施設の拡充を競った大炭鉱が、不況時に入ってもこれを維持するために、なおも大量の石炭を掘り続けなければならなかったことである。「石炭鉱業はその投資の大部分を地下に固定させる特殊の企業たる関係上、市況に適応して経営を伸縮せしむることが困難であり、またその出炭は多量でなければ採算が不可能となるため、自然供給は過剰になり勝ち」となる。
磐城炭の出炭と販売は、『福島県統計書』からみると、大正8年を100年とした場合、大正15年(1926)には、出炭量78、販売量92、販売金額67となっている。
大正10年には「常磐石炭鉱業会」が大手炭鉱4社(磐城、入山、古河、大日本)によって発足し、出炭制限なども試みたが実効には乏しかった。この間、出炭量に占める大炭坑の割合も64.5パーセントから78.7パーセントと高まり、なかでも磐城炭鉱のそれは24パーセントから47パーセントに急増した。大正13年のデータによると、全国主要炭鉱出炭量の順位において、磐城炭鉱(株)の内郷炭坑は75万9千トンを出炭し、第6位にランクされている。
また、国鉄は運賃を上げたのに円滑な荷捌きをせず、鉄道運賃が割高、海送運賃が割安となり、カロリー上の劣位も手伝って京浜市場での常磐炭のシェアは、大正12年の約25パーセントが、同15年には20パーセントにまで落ちている。こうした背景のもと、昭和2年の福島県議会に「小名浜港修築に関する契約の件」が提案された。
 この間、おもな炭鉱は蒸気動力を電力に改め、採炭機械を導入して塊炭率を高めたり、また不熟練工の就労にも対応した。坑内運搬も技術革新が広がり、一部には坑内電車も敷設されたし、排水・通気はもとより、防災面でもさまざまな工夫が実施された。
 しかし、このなかで見過ごせないことは、機械化に伴って災害もまた大型化したことである。例えば入山採炭では、大正13年8月、ガス爆発によって75名死亡の大惨事を引き起こしている。

第7章 大恐慌のなかの炭鉱

船舶燃料としての重油の普及、鉄鋼・金属・産業における電気溶鉱炉の出現、鉄道における電化の進展など、液体燃料と電気が石炭の領域に侵蝕を始めたこともあるが、決定的なものは、昭和4年(1929)秋、アメリカに発した世界恐慌であった。
昭和初年に約20パーセントを確保していた京浜市場のシェアは、同7年には10パーセントを割った。常磐炭全体では3割もの減退となった。綴(いまの内郷)から隈田川間204キロメートルの常磐炭鉄道運賃が大正9年トン当り2円60銭となっていたのに対し、昭和7年には3円24銭となっていたのに比べて、九州の筑豊炭の輸送コストは6円36銭から2円54銭と大幅な値下がりで、常磐炭は70銭の逆ザヤを負うことになってしまっていた。
昭和7年の常磐炭の平均市場価格は、トン当り15円25銭で、これまでのピークの大正8年当時と比較すれば半値以下であった。
賃金も、昭和2年を100とすると、昭和7年のそれは男子の坑内外とも60~70パーセント台に低下し、特に坑内の後山女子では半分以下になった。この炭田地帯に失業者があふれたのも昭和7年である。

第8章 戦時下の炭鉱

満州事変の勃発後は、円安による輸出の伸びと政府の軍備拡張政策のもとで、石炭鉱業でも不振からの回復の傾向がはっきりと現れはじめた。全国の炭鉱は、政府の相次ぐ石炭増産の要請に応えながらも、出産量の需要に追いつかぬまま戦時経済に組み込まれていくのである。
昭和9年5月、政府の重要産業統制委員会は、石炭産業を重要産業に指定し、年額15万トン以上の石炭の生産、または販売を行う業者を政府の監督下に置くこととした。
日中戦争開始から太平洋戦争開戦までの全国の石炭需要量は、昭和12年の5,309万トンが、同15年には6,811万トンに増えたが、これを頂点として同16年には下降を始めた。産業用と非産業用の年間構成比は、昭和12年の48対52が、同16年では52対48になった。
このような中で常磐炭の出炭量は、昭和15年の371万トンを最高とし、同16年には323万トンに落ちるが、以後、再び同18年の382万トンに向かって漸増した。
総力戦下の国家が常磐炭の増産にとくに強く期待したのは、ここが京浜・中京・釜石に向かって陸送可能な場所にあったからである。
産業連関から見て、この時期の国内エネルギー総需要量のうち6割程度が石炭に依存していたが、同時に石炭産業は大量の設備・資材・労働力を消費した。年間5,100万トン台の出炭をしていた戦時中には、10万トン以上の鋼材と、一千数百万本の坑木と、一万数千トンの爆薬とを消費し、そして30万名以上の労働者が炭鉱で働いた。その輸送に要する車両・船舶・荷役・小運送の施設・労働者などがまた莫大なものとなり、日華事変前、石炭輸送の比重は内地全鉄道貨物量の3割以上、内航船舶貨物量の5割以上に達するといわれていた。石炭は、まさしく戦時経済の大動脈をなしていたのであった。
ミッドウェー海戦(昭和17年6月)ののち戦局は暗転した。内閣は、勝機をつかむため航空戦と船舶の増産を焦眉の急とし、この二部間のほか鉄鋼・軽金属・石炭の「超重点産業」の生産力を最大限に拡充することを目指した。それはあらゆるレベルの生産要素を集中動員するもので、昭和18年4月から9月にかけての炭鉱整理・統合の実施要綱はその具体的一端であった。
この政府方針の第一着手が、常磐炭田で隣り合っている2社-磐城炭鉱株式会社(払込資本金1,718万7,500円、資本系列は浅野系)と入山採炭株式会社(同825万円、大倉系)の統合であった。
新会社の常磐炭鉱株式会社は、昭和19年4月1日より業務を開始した。運輸会社の指定も受け、その出炭量は昭和19年中では常磐炭田25炭鉱の総出産量の約38パーセントを占め、昭和20年5月頃までは日産10万トン前後を維持することができた。
とりわけ、労働力の欠乏を補うため、政府は石炭業界のかねてからの陳情に沿って、昭和14年8月からは女子鉱員の坑内就労制限を緩和するなど鉱員の採用基準を大きく緩和したほか、朝鮮人労働者の集団移入を認めた。
常磐炭田の炭鉱労働者数の動きは昭和7年から増加を続け、同12年の1万9,301名(指数100)を経て、同18年に3万6,103名(同187)に達し、同20年6月末には2万8,628名(同148)に減り、さらに日を追って減少しながら敗戦を迎えた。
目前の出炭のみを急ぐ結果として、炭鉱災害は却って悲惨なものとなり、日中・太平洋戦争下の9年間、常磐炭田地域では、坑内外8万件の災害・事故で男女労働者約900名が死亡、約8万4,000名が負傷した。これに職員の死傷231名が加わる。
日中全面戦争開始後の昭和14年から太平洋戦争終結までの間、日本本土に集団「移入」された朝鮮人は約67万名で、このうち炭鉱で使役された者は約32万名にのぼった。戦時下、朝鮮を「給源」とする労働力調達は、「募集形式」(昭和14~16年)、「官斡施」(昭和17~18年)の段階を経て、大戦末期には朝鮮人への国民徴用令適用による根こそぎ動員、すなわち文字通りの「強制連行」に至るのであった。
常磐炭田においては、昭和19年9月、7,210名の朝鮮人の就労が記録されており、全体の約2割、その8~9割は坑内労働に従事していた。終戦直後の昭和21年11月、各炭鉱が「解雇」した朝鮮人数は合計3,309名という文書もある。

第9章 戦後の混乱と炭鉱の復興

常磐炭田の昭和20年8月の石炭月産量は7万9,800トンであり、それが10月には6万4,500トンに落ちた。激戦下の5月に比べると3分の1以下である。同年度の年産170万トンは、翌21年度には235万トン、さらに同22年度には279万トンに回復するが、それでも、ようやく大正はじめ頃、または日中戦争勃発の前年の水準に戻ったに過ぎない。
朝鮮人労働者の退去による労働力減少の影響は特に大きかったが、ほかに飯米の遅欠配など食糧難、加えて住宅難、資材の欠乏などが生産力の回復を阻害した。
政府は戦後経済再建のため、その基礎条件としての石炭生産力の回復を急ぎ、占領軍がこれを督励した。各種の対策のなかで著名なのが、昭和21年12月に開始されたいわゆる「傾斜生産方式」で、これは「鉄鋼・石炭の超重点的増産による経済危機突破対策」となった。また昭和22年9月のマッカーサー司令部による重点6項目の指示-①最優秀技術の結集、②24時間作業体制、③労働者住宅と食糧供給、④新鉱脈・新坑の開発促進、⑤重点工業以外への石炭流通の規制、⑥増産目的への妨害者の訴追などは、翌年10月の閣議で「石炭非常増産対策要綱」として決定された。
折りしも、昭和22年8月5日、天皇による東北6県巡幸の最初の場所として常磐炭坑が選ばれ、地下450メートルの坑内に入坑されて鉱員を激励するという、炭鉱史においては全国でただ一つの記念さるべき行事があった。
いうなれば炭鉱の国家管理に近かったが、特に昭和22年1月に設立された復興金融金庫によって、実質コストと納入販売価格との差=赤字分にかかわる運転賃金の融資が炭鉱に重点的に投入され、設備資金をのぞくそのほとんどは、国が損失補償金(価格差補給金)の相当分を復金に払込む形で返済されたのであった。
昭和23年12月、アメリカ政府はGHQを通じて日本政府に「経済安定9原則」の実行を指令し、翌年2月に来日のドッジ公使がその具体的な適用策を指示した。インフレ高進の終息と国家財政の収支的衡がその目的とされた。
昭和23年末から石炭供給はすでに過剰気味になっていた。同24年9月には、石炭の完全自由販売制が復活した。

第10章 朝鮮戦争ブームとその反動

ドッジ・ラインによるデフレ不況によって石炭消費も減退し、昭和25年7月末の貯炭は450万トンに達していた。朝鮮戦争が勃発した昭和25年6月、常磐の石炭鉱業はなお沈滞の中にあった。
しかし朝鮮戦争が本格化すると、在日アメリカ軍が大量の物資を日本から調達し、輸出増と特需ブームは当然、産業界による石炭需要を喚起した。
昭和26年の常磐炭の出炭量は、前年に比べて3割強を、送炭量は4割弱を増した。荷渡実績は関東で約5割、東北で約6割のシェアを保持した。その消費者別の需要割合では、駐留軍向けの55万トンが全荷渡量の約17パーセントを占め、出荷先の首位であった。そして国鉄用が12.5パーセントであった。その後、日本のエネルギー消費量の急成長にもかかわらず、エネルギー源のなかでの国内炭の地位は低下の一途をたどった。動力機関のディーゼル化・電化の進展に加えて、石油代学工業の発展があったためである。
日本経済の高度成長が本格的にスタートした昭和30年、常磐炭の荷渡量は314万トンにまで回復したものの、もはや朝鮮動乱ブーム当時の盛況353万トンは望むことが出来なくなっていた。
そうした背景のもとで、商品化のより困難な低品位炭の利活用策が検討され、地域総合開発の時流にも乗って、いくつかの現実的なプロジェクトが具体化した。常磐炭鉱(株)が筆頭株主となって常磐共同火力発電所が鮫川河口に総工費47億円をかけ、3万5,000キロワット発電機2台の設備を完了して運転を開始したのは、昭和32年11月である。
小名浜に硫安の製造工場をもつ日本水素工業(株)も、アンモニア製造の原料ガス源が生産コストを支配する最大の要素であることから、この対策として、西ドイツのコッパ-ス社による微粉炭完全ガス化方式の採用にふみきり、昭和30年秋にはコッパ-ス炉の設置を完了して稼動に入ったが、結局は昭和36年、原料を原油に転換せざるをえなくなった。
常磐炭鉱株式会社の営業報告書にみると、その総資本利益率は、好況の頂点であった昭和26年では11.85パーセントを記録したものの、その後は同27年9.6パーセント、28年2.7パーセント、29年0.8パーセント、30年0.6パーセントにと惨落を続けたのであった。合理化のいきつくところは人員整理であり、これが労資間の緊張を高めるのも当然であった。

第11章 重油の進出と石炭の「斜陽化」

昭和30年代の日本は経済は、第一次高度成長期であった。この10年間に、年平均の実質GNP(国民総生産)成長率は9.7パーセント、鉱工業生産拡大率は14.6パーセントという驚異的な伸びを記録し、生産力の水準もこの間に3.8倍になった。それは、広範な技術革新に基礎をおく重化学工業化と、それに伴う産業構造の急ビッチな再編成をもたらすものであった。
とりわけこの間に、鉄鋼・電力・化学など高度成長を支えた重要産業において、原材料の石炭から石油への転換が進展し、政府の石炭切り捨て政策とともに、「エネルギー革命」と石炭産業の「斜陽化」が一気に全面化することになった。
それは、貿易・為替の自由化という開放経済体制への移行の促進を背景に、国際石油資本の日本向け石油輸出拡大戦略によって後押しされた一次エネルギーの構成における固定エネルギー優位から流体エネルギー優位への転換を内容としていた。
昭和30年には、一次エネルギーの約半分を石炭が占めており、しかも、その石炭のうちの90パーセントが国内炭であった。これに対して、石油と水力はともに20パーセント強であった。
10年後の昭和40年には、一次エネルギーの供給総量が3倍化する。石炭の供給も絶対量としては64パーセント増加したが、全体の構成比では27パーセントに後退し、されに、そのなかでの国内炭比率も70パーセントに低下した。また水力は絶対量で60パーセント弱の増加にとどまり、総供給量に占める構成比も半減して10パーセント強となった。これに対して、石油は絶対量で約9倍化し、総量中の構成比も60パーセント弱にまで達した。そして、石油が石炭を追い越すのは同35年前後であり、輸入炭が国内炭を上回るのはさらにその10年後である。
こうした中で、国内炭及び常磐炭の生産も、昭和36年をピークに頭打ちとなり、以後は停滞から減少へと向かうことになる。
昭和30年9月施行の「石炭鉱業合理化臨時措置法」は、徹底したコストダウンを求めるのであった。常磐炭田においても、機械化と人減らしは、大平炭鉱における昭和36年度のトン当り生産原価を、同33年度のそれの約8割に低下させるという合理化の効果をもたらした。全国的には、合理化臨時措置法の施行から10年間に、出炭量と実働労働者数がいずれもほぼ3分の1になっていることは、石炭鉱業の合理化整備がいかに徹底したものであったかを物語っている。
ここが産炭地に与えた社会的影響は極めて大きかった。地域経済の疲弊が進行した。常磐地域も、歴史的にはもっぱら石炭に依存してきた地域であるため、そのインパクトは失業問題や財政赤字など広範に及んだ。
炭鉱の閉山を、交付金支出など社会政策的措置によってソフト・ランディングをはかる政府の措置も手伝って、常磐炭田全体では、昭和30年から同43年の13年間に87の炭鉱が閉山となったのであった。そしてこの時期の予期せぬ生誕が常磐ハワイアンセンターである。
常磐炭鉱は、坑内より湧出する高温多量の温泉水(平均湯温66度、毎分110トン)の開発、利用を営業内容とすることはなかった。しかし、炭鉱業からの全面撤退を前に、経営の多角化によって資本転換を図るためには、温泉水は貴重な資源となる。同社は、昭和39年9月、常磐湯本温泉観光株式会社を資本金6億円で設立し、国鉄常磐線の湯本駅の西方3キロメートルの丘山の敷地31万平方メートルに、大規模なレジャー施設を起工した。同施設は総工費25億円をかけて、同41年1月、「常磐ハワイアンセンター」の名称で営業を開始した。同社の中村豊社長は、大資本によるこの観光業の起業にあたり、「新事業は共存共栄の道を開くものである」と説いて既存の湯本温泉旅館組合側に了解を求めた。大温泉プール、熱帯植物園とハワイアンダンスのショーなど、かつての炭鉱は驚くべき変貌をとげた。地元の新聞は、「オープンに5,500人-日立・宇都宮などから」と初日の客の出足好調を伝え、湯本駅ではこの年、年間の乗降客がはじめて100万人を超えた。

第12章 切羽からの撤退・坑道の閉鎖

常磐炭は原料炭がほとんど無く、もっぱら一般炭である。昭和42年度の国内市場への一般炭の入着量の約11パーセントの391万トン余りが常磐炭で、地方別では関東に替わって東北が首位を占めた。
石炭鉱業審議会の昭和43年12月の「第4次策」は年間出炭規模を明示せず、「石炭鉱業の閉山縮小はできるだけなだらかに行われるように配慮する」との条件を加えての安楽死宣言がなされた。
常磐炭鉱(株)は、昭和45年5月、子会社として「新常磐炭鉱」を設立し、同年7月には常磐湯本温泉観光株式会社を合併して、商号を常磐興産に変更した。
常磐湯本温泉観光は、昭和39年9月、常磐炭鉱の全額出資で設立され、同41年1月、常磐市藤原町の旧三星炭鉱の跡地に、坑内から排出される豊富な温泉水を利用する大規模な観光娯楽施設「常磐ハワイアンセンター」を開設し、同年41年度128万人、同43年度143万人、同年45年度152万人の誘客に成功していた。その従業員はすべて炭鉱から移籍したことも特記される。
常磐興産は、昭和52年度では、資本金20億8,500万円、年商約165億円の企業に成長した。
常磐炭鉱は、昭和46年4月、磐城鉱業所をほぼ全面的に閉山し、常磐共同火力勿来発電所への供給を維持するため、また茨城県中郷鉱の出水・閉山に対処すべく、西部鉱業所採炭に着手したが、坑内温泉水の増加などで出炭は20万トン台にとどまり、その累積赤字も36億円に達し、昭和51年8月末をもって、福島県で最後まで採炭した常磐炭鉱西部鉱業所はその操業を停止した。
これ以後、常磐炭鉱は中郷炭鉱の露天堀だけの「一社一山態勢」の5~7万トン台の採炭をしたが、これも昭和60年3月末ももって事業を廃止し、常磐炭鉱は親会社の常磐興産に吸収されて残務処理にあたることになり、ここに、常磐炭田の石炭産業史は、ほぼ完全な終幕を迎えたのであった。
このことは、すでに昭和40年代なかばには、常磐炭の一般炭としての需給の対象は、常磐共同火力という地元の火力発電所のみというまったく局地的特定産業に限定されたことによっても理解されるであろう。勿来発電所の石炭消費量は、昭和45年の235万トンがピークで、同48年には北海道炭20万トンを含めて、57万トンと約4分の1に激減し、重油消費量が約9倍に増加した。
昭和45年度からら同59年度に至る15年間だけでも、常磐炭鉱が各種補助金・交付金の形で国から得た会社上の「営業外利益」と「特別利益」は、それが損失の補填に供されたとはいえ、総額301億円にのぼったのである。
常磐炭田の労働者数は、ピーク時が昭和23年8月の3万9,607名、同47年3月の1,680名を経て、同51年3月68名にまでも落ち込んだ。その興亡の落差は、これまでの産業央が経験したことのないドラスチックなものであった。

結び-感想と課題

本書は、年表や主要文献目録なども加えたA5版965ページに及ぶ大著である。巻頭に貴重な写真が数多く提供されており、23名の学者、関係者の分担執筆によって、概説と全13章をもって構成されている。
以上に私がとりまとめた本書の紹介は、幕末の20年と明治・大正・昭和の時代は60年まで、約135年にわたる常磐炭田の歴史のうち、全国的動向との関連に留意し、経営経済面を主とした産業史的要約である。本書は、炭鉱の技術史としても優れて豊富な内容をもっており、独自の研究領域をなしていることを知ったが、これを炭鉱の事故や災害と関連させて専門的に検討してみることも必要な課題であろう。また本書の特色として、労働者の生活、労働運動にも注目した記述を、一貫していることがあげられる。地域史として、炭鉱労働者の集住形態における民俗・風俗も含めた生活についての歴史的研究は以外に乏しく、炭鉱関係者が現在しているうちに取組まれるべき大切な課題であろう。また常磐炭田の労働運動史は、全国的な“炭労”の動きとは独自の軌跡を示したようであるが、労働運動史こそ、資本と労働の対抗関係に傾斜した視点のみでなく、その時期別の国家の政策の検証を踏まえ、政党による政治的バイアスを客観視して解明が求められる不可欠な領域であり、その研究の進展が期待されている。
また、本書は常磐炭鉱株式会社磐城鉱業所の現況(723ページ)として、高い坑内温度と世界に類を見ない排水量について、常磐炭鉱を象徴するような記述をしている。
「多くの断層には、多量の高温度の坑内水が溜まっており、その溜まり方が複数なので対策が難しい。その克服のため巨額の費用で通気堅坑を堀り、大量の通気を行っている。それでも、切羽の最高温度は懾代43度、平均が32.4度である。出炭トン当り通気量は全国平均が1万80立方メートルであるのに対し、当炭坑では1万8000立方メートルも達する。
出炭1トン当りの排水必要量は、全国平均12.2立方メートルであるのに対し、当炭鉱ではその4倍の37.2立方メートルである。深部開発のためには、排水設備を大規模に増強し、水位の急速な低下をはからなければならない」。
このことが、常磐炭田における経営史、技術史の面でユニークな特徴を与えたことは容易に推察しうるが、浜通り唯一ともいえる湯本温泉と、炭坑内の温泉との対抗し相関する独特の歴史についてもより立ち入った研究が求められるであろう。
本書を通読して私がもっとも強い印象を受けたのは以下の通りである。
ひとつは、常磐炭田の開発の基幹をなす面が、江戸・東京の資本によって垣われたことと、その延長として戦中から戦後にかけて巨額の国家資金が投入されたことである。この特質が、「概説」で山田舜教授が指摘している「この地域では石炭鉱業における産業資本の確立が、同時に独立資本の確立であることを知ることができる」という事態が日露戦争後、20世紀はじめには現実化していたことに、かかわっている。いわきの近代史は、渋沢栄一や浅野総一郎といった明治を代表する経済人との深い関係でスタートしていることは、その後100余年を通して、東京依存、関東依存を、資金面、供給市場面で定着させてしまったのではなかろうか。それだけにまた、いわきを代表する化学工業ともいえた日本水素工業(株)や常磐共同火力発電所と地元炭鉱との地域内産業連関のさまざまなプロセスが強い関心を呼び起すのであった。これらの試みがなお不可欠の研究領域としていま地域史の分野に求められているといってよいであろう。
今ひとつは、炭坑と製品輸送の市場コストにおける強い一体的関係である。常磐炭田史が鉄道・常磐線との深いかかわりを欠いては成立しないことはもちろん、それはまた小名浜港
の盛衰に支配的影響をもつものであった。綴駅が日本有数の貨物発送駅になったのも石炭あってこそであり、現在の内郷駅周辺の広大な構内景観から盛況時がしのばれるであろう。相対的にみて、常磐線の整備が先行していたのも、首都圏と200キロメートル余で結ばれる石炭があり、唯一、鉄道がこれを媒介したからであった。
三つ目は、エネルギー革命の凄さが地域史のなかに、まざまざと照射されていることである。
以上のように本書を読んでみると、この常磐炭田史の中に、日本の近現代史が濃縮されたスタイルで詰め込まれていることを、興味深く理解できるのである。

東日本国際大学地域経済研究所
 地域経済研究所年報 「地域研究 第6号」 2003年2月20日