大角 暢

  私は、昭和32年常磐炭坑に入社しました。
   同期入社は、15名。東京本社で入社式を終え、研修先の磐城鉱業所に向かいました。社会人の出発は、内郷市(当時)の鶴鳴寮から始まりました。
   坑内の現場研修では、坑内温度45°前後の高温の中で褌1本の作業体験もありました。

 同期入社の中で酒飲みグループとは、よく飲みました。外では、あまり飲めませんでしたけれど、行く店は、一軒だけありました。1年先輩の錦さんに教えて戴いた平市(当時)にあった「久松」という飲み屋に行きました。女将さんの優しさと我々にとってアイドル的存在であった「お雪さん」のことは、深く思い出に残っています。

 何ヶ月かの研修を終え、私は、茨城鉱業所中郷鉱勤務を命じられました。当時、茨城鉱業所には、大先輩の井上保之助さんがいらっしゃいました。

 採炭現場は、長壁式採炭(約200m)を行っていました。勤務は3交代制でした。  採炭方式は、機械化が進んでおり、当初はジブカッターでしたが以後ドラムカッターに進展し全断面機械掘削で採炭されていました。 勤務時間が終わってからは、飲み助の私が寮生活をしていたせいか、2番方の時は、よく2上がり会を寮で行いました。2上がり会から2次会に行き、帰りに1番方出勤者と一緒になったという格好の悪い思い出もありました。

 又、寮生活時代は、各先輩のお宅に、勝手にお邪魔して楽しく生活させて頂いた記憶が鮮やかに残っています。現在もお仕事をされている岩井芳人さんのお宅にはよくお邪魔しました。奥さんにも非常に楽しく接して戴いて感謝しております。
   数年後、神の山勤務になりました。神の山鉱には、学生時代、現場研修時にお世話になった佐藤俊介さんがいらっしゃいました。勤務は、主務者という立場で、常1番の勤務になりました。

  神の山鉱勤務時代に、私事になりますが、結婚しました(昭和38年)。翌年(39年)長男が誕生し、3年後(42年)に次男、三男が双子で誕生しました。子供3人の育児は、女房一人では大変だったと思いますが、社宅に住んでいたお蔭で周囲の皆さんに大変お世話になり、楽しく生活をさせて戴きました。皆様には心からお礼申し上げます。

 又、社宅に住み始めた頃、仕事仲間の皆さんが社宅の庭に池を作って下さって、鯉を泳がせてくれました。有難う御座いました。
  次男、三男が産まれたのは42年3月のことでしたが、その年の7月に海外出張を命じられました。

  モスクワで開催される、国際採鉱会議への出席です。日本からは、東大教授の伊木先生が団長になられて23人が参加しました。当時は、未だ国交が回復されておらずモスクワ空港の出口は、一般客とは別ルートだったと記憶しています。本会議では、日本から何件かの発表がありました。常磐炭坑からは、立山常務が発表されました。私は、当時の言葉で言えば鞄持ちで参加ということになりますが、当時の海外行きは、自分の鞄だけで精一杯でした。勿論、私にとっては、始めての海外旅行でした。

  モスクワの会議は、2週間行われましたが、私は、1週間参加して、その後現地(ノボモスクワ)の炭坑現場見学に行きました。

  その後、ポーランドの炭坑現場に行きました。その時、印象に残っているのは、談話の中で日本の原爆被災の話がでました。今後、この様なことが二度と起こらないようにとの思いを込めて、お嬢さんの名前を「ナガサキ」とされたとのことです。ポーランドも第二次世界戦争では、大変な被害を受けています。
  ポーランドの次は、イギリスの炭坑現場にいきました。坑内では、ロードヘッダーの元祖のような掘削機械が稼働していました。
 最後にドイツの炭坑現場に行きました。ホーベルを使用している採炭現場を見ました。ドイツで記憶に残っているのは、ホテルのボーイさんが非常に親切だったことです。当時感じたのは、戦後まだ20年一寸しか経っていなかったこともあり、仲間意識があった様な気がしました。
 約40日の行程を楽しく過ごす事が出来て、ご同行戴きました立山親分には、心から感謝いたします。

  その後、中郷鉱の新鉱開発の計画に伴い、中郷鉱勤務となりました。直接上司の増子さんに指導を戴き、岩石掘削から始まり着炭后炭層坑道を掘り進み、昭和46年には、長壁式の切羽も貫通して、8月末からは、採炭開始の状況となりました。

  当年のお盆休み、私は8月14日から家族5人で両親のいる横浜市日吉に行きました。到着して30分も経たない時に炭坑から電話が入りました。内容は、新鉱の坑内で出水事故が発生したということでした。人災は、無いとのことでした。
  私は、即刻、山に戻りました。丁度採炭現場が新鉱に移動する時でしたので、当時の炭坑の状況から見て、ある程度の覚悟は、出来ていました。
  山に戻り、色々とありましたが、結果は閉山となりました。私は、8月30日で退社となりました。

  私にとっての炭坑生活は、14年5ヶ月でしたが、本当に皆さんの愛情を直に戴き素敵な期間でした。  
 独身時代の諸先輩の暖かさ、結婚してからの社宅の皆さんの愛情、仕事仲間が社宅の庭に池を作って鯉を泳がせてくれた事。又、大北川での紅葉狩り、子供たちと一緒の運動会等々・・・

  昭和46年10月から推進工事を業務の主体にしている、大阪に本社のある機動建設工業に勤務いたしました。
 新しい職場でも、機械化の進んでいた炭坑の現場技術の経験を基に楽しい職場生活を送ることが出来ました。

  常磐炭坑万歳三唱です。

  常磐時代の仲間の集会は、茨城鉱業所親睦会は、毎年9月頃、1957年入社の57会も昨年から毎年開催の予定です。                                                                             以上

  追伸
 33年前の事で、私も年を取りました。記述にミスがありましたらお許し下さい。

(略歴)
1934年 札幌生まれ
1957年 北海道大学工学部鉱山工学科卒、常磐炭鉱入社、茨城鉱業所勤務
1971年 閉山により退社、機動建設工業(株)入社
1999年 退任、(社)日本下水道管渠推進技術協会勤務