| 文久元年 |
1469 |
この年 |
筑後三池炭田、農夫により発見される |
天正年間
|
1573〜92 |
|
八茎鉱山が発見される
|
延宝年間
|
1673〜81 |
|
宇部炭田、このころから 塩田用燃料として小規模に採炭される |
| 享保3年 |
1718 |
2・ |
水戸藩、多賀郡秋山村の「ぶんどふ岩」を水戸へ送らせる |
享保6年
|
1721
|
この年
|
筑後柳川藩の老職小野春信、三池郡平野山に炭層を発見し採炭。三池炭田は発見の二百 五十年後にはじめて稼 行される |
享保年間
|
1716〜36 |
|
筑前・豊前・肥前の炭坑、それぞれ開坑される
|
宝暦年間
|
1751〜64 |
|
筑豊遠賀地方で石炭が発見される
|
明和年間
|
1764〜72 |
|
筑前若松の庄屋、石炭を製塩燃料として中国・四国へ販売
|
文化4年
|
1809
|
この年
|
多賀郡山部村・友部村・那珂郡長倉村で石炭産出の記録がある『水府志料』が編さんされる |
| 文化10年 |
1813 |
2・15 |
片寄平蔵、磐城郡大森村に生れる |
| 文政7年 |
1824 |
この年 |
神永喜八、多賀郡上小津田村阿吹に生まれる |
| 天保元年 |
1830 |
10・12 |
加納作平、磐前郡滝尻村に生まれる |
| 天保7年 |
1836 |
この年 |
水戸藩、幕府より大砲鋳造の命を受ける |
天保年間
|
1830〜44 |
|
筑前で石炭鉱業統制のため石炭会所・焚石会所を設置
|
嘉永4年
|
1851 |
この年
|
神永喜八ら、製塩用に上小津田村字塩の平、さらに小豆畑村字芳の目を開坑し石炭三〇〇俵を江戸へ回漕 |
| 嘉永5年 |
1852 |
4・10 |
佐賀藩、反射炉を完成 |
|
|
6・
|
水戸藩、秋山・野口・手綱の石炭を大砲鋳造と蒸気船の燃料用に注目し、乱掘他国売出しを禁止 |
| 嘉永6年 |
1852 |
6・3 |
ペリー、浦賀に来航 |
|
|
この年
|
渡辺次右衛門(明石屋七代・福秀)と片寄平蔵、以後安政六年まで戸渡山・内倉山などの材木を切出し販売 |
| 嘉永7年 |
1854 |
3・3 |
日米和親条約調印 |
|
|
この年
|
水戸藩徳川斉昭、藤田東湖に命じて南部藩士大島高任らに大砲鋳造用の反射炉を築造させる |
| 安政2年 |
1855 |
この年 |
水戸藩、友部村で石炭採掘し那珂湊へ回漕 |
|
|
この年
|
函館奉行、釧路・白糠・留萌地方などの石炭山の調査に着手 |
| 安政3年 |
1856 |
3・4 |
大島高任、水戸藩反射炉で石炭を用いて銑鉄溶解に成功 |
|
|
5・ |
片寄平蔵、白水村弥勒沢で石炭層を発見 |
|
|
7・
|
照井幸蔵代人の美濃屋岩蔵、石炭採掘のため神永喜八と商談。八月から送炭を開始 |
|
|
12・ |
三池大の浦炭坑で様式斜坑を開削 |
|
|
この年 |
多賀郡小豆畑村字ヲボコ沢の石炭山開坑 |
|
|
この年
|
西蝦夷地の茅沼で石炭発見。諸術調所を設置した函館奉行が開発に着手 |
安政4年
|
1857
|
4・11
|
幕府、築地講武所内に軍艦教授所を設置。元治元年5月21日に軍艦総練所と改称 |
|
|
9・ |
片寄平蔵、湯長谷藩の許可を得て弥勒沢に開坑 |
|
|
9・
|
渡辺冶右衛門代人の片寄平蔵、湯長谷藩に五年間の弥勒沢石炭製油願を提出 |
|
|
10・5
|
渡辺冶右衛門代人の片寄平蔵、湯長谷藩に出願の石炭油製造が許可になり請書を提出 |
|
|
この年
|
渡辺冶右衛門と片寄平蔵、白水山で石炭油製造を試み樽詰で大阪・江戸へ各二〇〇樽積送したが買手がなく失敗 |
|
|
この年 |
楢葉郡上手岡の鉄山発見、踏鞴(たたら)で製鉄される |
|
|
この年
|
箱館奉行所の石炭山係、江戸から四名の採炭夫と人夫を引連れ白糠で二坑を設け採炭 |
安政5年
|
1858
|
5・
|
加納作平、白水村不動沢に石炭を発見。採掘は慶応3年5月から開始 |
|
|
6・19
|
日米修好通商条約調印。神奈川(横浜)の開港などを決める |
|
|
10・
|
片寄平蔵、石炭御用となり牛馬二〇〇頭で石炭三〇〇〇俵を小名浜まで駄送し、江戸へ回漕 |
|
|
11・23 |
片寄平蔵、幕府軍艦操練所から呼出しを受ける |
|
|
この年
|
神永喜八、神奈川開港に向け上小津田村中の倉・唐虫及び小豆畑村産子沢・小滝・鍋窪の五坑を開坑 |
|
|
この年
|
三池炭田大の浦で安政2年から開削中の斜坑完成、延長230尺(約70メートル)。この頃の最大規模 |
安政6年
|
1859
|
1・13
|
幕府、神奈川・長崎・箱館の開港場へ出稼・移住・自由販売を許す
|
|
|
1・
|
片寄平蔵、外国奉行所へ神奈川開港へ向け石炭・延紙・椎茸の交易願を提出
|
|
|
6・2 |
横浜開港 |
|
|
6・
|
渡辺冶右衛門、横浜開港に伴い片寄平蔵と共同して明石屋平蔵店を横浜本町五丁目(後の元浜町一丁目)に開設 |
|
|
12・
|
小西屋喜兵衛代人の常次郎と大平左平太、上湯長谷村字弓折で石炭発見。7年2月に湯長谷藩の許可を得て採炭 |
|
|
12・ |
一徳屋藤吉(江戸八丁堀)、横浜出店のため小野田坑での採掘を出願。炭価安にて中断 |
|
|
この年
|
大越甚六、白水村立石・滝山・中山・萱之入を開削
|
| 安政7年 |
1860 |
|
3・18 万延と改元 |
|
|
1・
|
片寄平蔵、幕府軍艦操練所から横浜までの石炭積戻入用金八両余を受取る |
|
|
1・
|
水戸藩、中山氏領内の石炭掘取り・他所売りを全面的に禁止 |
|
|
8・3
|
片寄平蔵、笠間藩江戸屋敷で死去 |
安政年間
|
1854〜60 |
|
伊予大久喜銅山(愛媛県)が発見される
|
| 文久元年 |
1861 |
9・
|
片寄唯助ら、小名浜で幕府軍艦に石炭を販売 |
|
|
9・
|
旗本秋山家、小豆畑村ほかの領地で石炭御手産堀を開始 |
|
|
この年
|
片寄平蔵の家督、孫の唯助に継承 |
|
|
この年
|
神永喜八、小豆畑村遠坊作に開坑 |
| 文久2年 |
1862 |
2・
|
明石屋、平潟港の回船問屋板屋(武子)市兵衛に白水山の石炭採掘・積出しを委託 |
|
|
6・
|
美濃屋岩蔵・神永喜八ら、石炭産出状況を塙代官所に提出 |
|
|
G・
|
水戸藩領小野矢指村の製塩に、石炭を燃料としてはじめて使用 |
文久3年
|
1863
|
2・
|
幕府普請役の役人、関八州の石炭産出地見分のため常陸多賀郡を巡視 |
|
|
7・
|
水戸藩、上手綱村能仁寺焼失堂屋再興資金のため、朱印地からの石炭掘取りを許可 |
慶応2年
|
1866
|
9・13
|
幕府、兵庫表へ回漕の御進発御用石炭八〇〇万斤を白水・小豆畑・小津田で採炭することを河野庄七に命じる |
慶応3年
|
1867
|
6・
|
茅沼炭山で鉱山技師ガワーの献策により採掘を再開、「洋式採炭法」と馬力による石炭車の運搬を導入 |
| 慶応4年 |
1868 |
|
9・8 明治と改元 |
|
|
1・3
|
戊辰戦争起こる |
|
|
2・25
|
政府、大阪の旧幕府銅座役所を接収、鉱業行政機関として大阪銅会所を設置(布告109号) |
|
|
C・21
|
政府、官制を改正し、会計事務局を廃止して新たに会計官を設置
|
|
|
7・10
|
大総督府、諸藩が私的に石炭を購買・運搬することを禁止 |
|
|
7・25
|
政府、大阪銅会所を鉱山局と改称、会計官に所属し金銀銅の売買などを管理させる(太政官布告581・582号) |
|
|
7・
|
加納作平、大総督府小名浜石炭取締局より石炭御用達を命じられる |
|
|
8・11
|
笠間藩、小名浜取締石炭守衛を命じられる |
|
|
8・14
|
松岡藩、大総督府石炭取締局より管内石炭採掘の取締りを厳重にすることを命じられる |